「おーい、ようがんばったぞ!」中学の同級生コンビががむしゃらに追いかけ追い付かなかった「M-1グランプリ」
「M-1グランプリ」ファイナリストは、あの日、あの時、何を思ったのか?過去の貴重な映像と共に振り返る「M-1レジェンドヒストリー」。2001年から2010年の間にファイナリストを2度経験したダイアン。中学時代の同級生同士で組んだコンビは、結成3年目からM-1準決勝の常連に。しかし、気合や強気の姿勢とは裏腹に、決勝の舞台にはあと一歩届かず、同年代の笑い飯や麒麟、千鳥との差を感じ続ける…。そんな苦難の時代を、当時の密着映像とともに振り返る。2007年に初めて決勝進出を決めた瞬間の、ふたりが嬉しさを抑えきれない様子は、M-1の歴史を塗り替えたともいえる。
自信と絶望、3年連続の準決勝敗退がダイアンを変えていく
ダイアンが初めて準決勝に進んだのは結成から3年目の2002年。クールなユースケのボケに津田が熱量高くツッコむ漫才スタイルはすぐに大衆に受け入れられるところとなり、3年連続で準決勝進出。2004年には決勝戦に向けて「バッチリ」(ユースケ)、「自信はあるゆうたらありますよ」(津田)とあからさまに高揚した笑顔を見せている。しかし、三度決勝に進出できなかったことで、2人の自信に蔭りが見え始める。2005年、津田は「結果見んと帰りますよ。どうせダメでしょ」と苦笑い。2006年、津田はカメラのほうを見ようともせずに「(決勝進出は)無い!」と吐き捨てる。このときの心境をユースケは「最初は先輩が決勝戦に行くもんやと思って。次第に同世代が決勝に行き始めて、2006年は一般の変ホ長調が決勝。『プロの俺が何してるんや』って思って」と語る。
「喜んだらあかんみたいな空気の中で」思わず出たガッツポーズ
しかし、この経験が彼らを変えた。2006年の準決勝敗退後、ユースケは「1年通してちゃんと出来てるかが最後に出る」と「M-1」への意識をすでに変えていた。そして迎えた2007年、そのときはやってきた。年の初めから「M-1」に向けて漫才を磨きあげた6度目の準決勝。決勝進出者発表でコンビ名を呼ばれた瞬間、津田は思いっきりガッツポーズ。その後、2人で熱い握手を交わす。
当時を振り返った津田は「喜んだらあかんみたいな空気の中で、俺が初めてみんなの前で喜びだした」と苦笑い。同世代の芸人たちに後れをとっていると感じていたユースケは「決勝メンバーに仲間入りできた喜び」と素直な心境を明かす。初の決勝の結果は辛く、7位。しかし、ダイアンの快進撃は止まらない。
「優勝候補」と呼ばれて
翌年2008年、自然とダイアンの名前が「優勝候補」として巷にあふれ始めた。それは本人たちの耳にも届き、「優勝するって噂が広まって番組にたくさん呼んでもらった」とユースケは回想。漫才以外の仕事も順風満帆な中、「去年以上に『M-1』のことを考えた」とネタにもより一層気合いが入っていた。そして迎えた2度目の決勝戦。出番はトップバッター。トップバッターで優勝したのはこの時点で2000年の初代王者・中川家のみ。結果は6位。運の悪さと捉えることもできるこの結果を、ユースケは当時「順番が後でも優勝はできてない」と冷静に分析している。
そして2009年のラストイヤー、ダイアンは準決勝敗退してしまう。果たして彼らに何があったのか。準決勝のネタ後、すでに津田は「絶対アカンわもう」と崩れ落ちていた。今回のインタビューで津田は「ええネタやと思ってた」と告白。ユースケは「3回戦と準決勝のネタが逆やったら多分(決勝戦)いってた」と、当時考えていた自分たちの“ネタのシステム”や戦略を赤裸々に明かす。2015年、本当のラストチャンスに臨むダイアンに、かつてのがむしゃらな空気はない。準決勝後、「厳しいかな」「やるだけやったんですけどね」と、津田は落ち着いた様子で敗退覚悟。結果を聞いた際にも、ユースケはうなだれつつ、「これがやっぱり『M-1グランプリ』」と静かに口にし、彼らの「M-1」は終わりを告げる。
「優勝はできてないけど自分ら的にはやった」(ユースケ)、「がんばりましたよ」(津田)と、当時の奮闘を称え合う2人。調子に乗ったときも自暴自棄になったときも、すべての感情を誰よりもさらけだしてきた津田は「おーい、ようがんばったぞ!」と自分たちにエールを送る。そして「M-1に出場することとは?」という質問に対して津田がポロっと発した言葉で、顔を見合わせニヤッと笑うダイアン。「M-1」とは2人にとって何だったのか。ダイアンらしい最後の瞬間は必見。
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