“寄り道癖”のある先輩アナに若手アナがピシャリ! 大阪城防衛のマル秘戦術を二人で推理 大阪〜伏見2つの城を結ぶ道「京街道」しゃべ歩き旅

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ABCテレビの柴田博アナウンサーと中村想人アナウンサーが、古くから街と街をつないできた「街道」を歩きながら深い歴史や人の営みに触れ、街の魅力を再発見する「柴田・中村の街道しゃべ歩き」。今回は「京街道」編のパート2をお届けします。

「京街道」は大阪から京都をつなぐ全長およそ45kmの道のり。1596年、豊臣秀吉が大阪と伏見に築いた2つの城を最短距離で結ぶために整備したと伝えられています。

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前回は、街道の起点となる大阪・北浜の高麗橋を出発し、野江内代までの約3.5kmを歩いた2人。今回はさらに京都方面へと向かいます。

寄り道が多すぎてあまり進めなかった前回を反省し、今回は距離を稼ごうと意気込んではみたものの、早くも気になるものが目の前に。どこか懐かしい下町のムードを漂わせる「野江国道筋商店街」で、「おばちゃんのじてんしゃ」という手書きの看板がほほえましい自転車修理店をのぞいたり、創業70年の漬物屋さんで昔ながらの作り方にこだわったお漬物を堪能したり。

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地元の人たちとのふれあいが楽しくて仕方ない様子の柴田アナですが、どうにも止まらない“寄り道癖”に、中村アナが「柴田さん、進んでないです」とピシャリ。ゴールまではまだ40km以上! がんばって先を急ぎます。

さて、大阪メトロの関目高殿駅付近に差しかかると「京街道」は一旦脇道へ。見通しのいい大通りから一転、曲がりくねった細い道がしばらく続きます。突然現れるくねくね道。何か理由があるのでしょうか?

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「あ、わかった!」とすかさず反応するのは柴田アナ。外から攻撃を受けたとき「敵が入りにくいように」、つまり防衛のためにわざと道をくねらせたのでは?と推理しますが、果たして真相は? 今回も、大阪の歴史にくわしい古地図コレクターで作家の本渡章先生に聞いてみました。

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本渡先生によれば、京街道の中でもこのあたりは「関目の七曲がり」という呼び名があるほど道がうねっているポイント。京街道を整備した豊臣秀吉が、万が一、敵が攻め込んできたときのことを考え、大阪城の近くにわざと通りにくいくねくね道をつくって「敵を食い止めようとした」といわれているそう。

つまり、推理は見事“正解”ということに!「秀吉の気持ちがわかるんですね」と本渡先生に感心され、得意げな柴田アナの頬は緩みっぱなしです。

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【動画】道中には、古きよき大阪をイメージしたレトロなスイーツで一服。商店街のお店で甘酒をいただいたり、焼酎を試飲したりと今回も結局寄り道三昧!

この後、2人は大阪市内を抜け、お隣の守口市へ。京阪守口市駅の近くで、気になるものを見つけます。目の前に現れたのは「守居橋」という小さな橋。ところが、下を流れているはずの“川”がありません。

よくよく見ると、橋のある場所は周囲の市街地より10mほど高く、下には道が走っていますが、なぜこんなところに橋がかかっているのでしょうか? 2人は再び本渡先生に疑問をぶつけてみることに。

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すると、驚きの事実が判明。実はここ、文禄5年に秀吉が淀川沿いに作った「文禄堤」という堤防の跡。当時は全長20km以上もありましたが、現在残っているのは700mほどで、その貴重な場所がまさに今、2人がいるあたりだったのです。

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当時は下に川が流れ、すぐそばに船着き場があったというこちらは、江戸時代には「守口宿」という宿場町として栄えたそう。宿場の面影が今なお残る古い町並みを過ぎると、旅人が距離の目印とした「一里塚」の跡が。

二代将軍・徳川秀忠が街道整備の一環として設置した一里塚。ここ守口の一里塚が築かれたのは、大坂夏の陣の翌年だったといわれています。つまり、徳川家が豊臣家を滅ぼしてからわずか1年後。天下分け目の決戦直後とは思えないそのスピード感に、柴田アナは「むっちゃ感動したんやけど!」と大興奮でした。

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「柴田・中村の街道しゃべ歩き」は、11月13日(木)放送の『newsおかえり』(ABCテレビ 毎週月曜〜金曜午後3:40〜)で紹介しました。

『newsおかえり』YouTubeチャンネルで配信中

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