「ずーーっと『ポツンと一軒家』が来るのを待っていた!」という消滅集落に集う謎の集団を捜索

衛星写真でみつけた謎の一軒家の実態を徹底調査する番組『ポツンと一軒家』(ABCテレビ)。11月16日(日)の放送回では、新潟県を訪れた。

いつものように最寄りの集落で情報収集を始めた捜索隊は、目的の場所が「ヤマノアイカワ」と呼ばれる大きな集落だったが、「40年ほど前に集団移転し、今は誰も住んでいない」という情報を得た。さらに「あそこに小屋を建てて、年に1回くらい集まってカラオケをしている人たちがいる」という話をきいて現地に行ってみると、「奥山の楽園 手づくり村 相川」と手書きされた看板を発見。しかし衛星写真の場所には辿りついたが、なかなか所有者まで辿りつけず。この場所が一体何のために作られ、どのような人々が活動しているのか、その実態は依然として深い謎に包まれ、なんと、番組の半分が捜索に費やされた。

©ABCテレビ

集団移転先のひとつだという団地で出会った村の元住人から、「奥山の楽園 手づくり村 相川」の重要メンバーに引き合わせてもらうことに成功。そこには、驚きの物語があった。

「手作り村」で出会ったのは、元住人の発起人(70歳)と、村長(77歳)。ここは、二人の中心人物のビジョンと実行力によって生まれた場所だった。

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衛星写真に写っていた建物のある場所は、発起人の生家があった土地。集団移転後、「みんなで山遊びしないか」と発起人が呼びかけた。その呼びかけに答えたのが、村長だった。この土地に縁はなく新潟にUターンしてきた元商社マンだったが、発起人の顧客として知り合い、その情熱に共感。以来、村長として次々とユニークなアイデアを出し、活動を牽引してきた。発起人が大工としての技術を活かし、木製電柱などの廃材を再利用してさまざまな建物を建築。そこに村長が遊び心を吹き込む。二人の固い信頼関係を核に仲間が集い、無人の山中に新たなコミュニティが育まれていったのだ。

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20人ほどで村開きしたときは、半数ほどが元住民という構成だった。四季折々のイベントを行い、最大70名もが集った。村長は「ずーーーっと『ポツンと一軒家』、来てくれないかなと心待ちにしていた」と笑顔で話す。平成20年(2008年)に始まったこの村も、高齢化が進み、現在の固定メンバーは10名ほどだという。

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集団移転で消滅した「山の相川」集落は、最も多い時で42世帯、300人以上が暮らす活気ある場所だった。集団移転に至った最大の理由は、冬の豪雪。冬には5メートルもの雪が積もり、外界から完全に孤立。買い物に行くこともできず、急病人が出ても病院に運べずに亡くなるという悲劇も起きた。厳しい現実を前に住民は徐々に減り、ついに昭和48年(1973年)、最後に残った10軒が麓へと集団移転し、集落はその歴史に幕を下ろした。厳しい自然ゆえに人々が去らざるを得なかった土地は、半世紀近い時を経て、人々が自らの意志で集い、笑い声が響く「楽園」として生まれ変わったのだ。

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捜索隊は、秋の「芋煮会」イベントの日に再訪。メンバーたちはまず畑に向かい、自分たちの手で育てた里芋や大根を収穫する。沢から引いた冷たい水で丁寧に洗われた野菜は、大きな鍋に入れられた。食卓には、主役の芋煮だけでなく、メンバーがそれぞれ持ち寄ったご馳走が溢れんばかりに並ぶと、豊かな食卓を囲みながら「最高ですね。唯一集まれる場がここ」、「高齢で集まる機会がない。この山だけが楽しみ」と、参加者たちは口々にこの場所への想いを語った。

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体調不良で「芋煮会」を欠席した村長にとっても、この村は単なる遊び場ではなかった。数年前に癌という大病を患った彼には、ここは魂の拠り所であり、何よりの「薬」となった。退院後に杖をつきながらも真っ先にここを訪れ、緑の中で過ごすうちに心身ともに回復していったという。今はここで仲間と共に汗を流し、あるいは一人でおにぎりを食べるだけでも満たされる。焚火をするのが最高の癒しだという。

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半世紀も前に廃村となった山奥の集落。それから35年の歳月を経て、発起人の呼びかけで生まれた「手作り村 相川」。高齢化し参加する人は減ってしまったが、それでも季節の恒例行事には気のおけない仲間が集まり、自然の中で賑やかな時を楽しむ。まだまだこれからも、山の上の遊び場に元気な笑い声が響き続けることだろう。

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ゲストに久保田磨希と陣内貴美子を迎えたバラエティ番組『ポツンと一軒家』(ABCテレビ)は、11月16日(日)の放送で紹介された。

ABCテレビ・テレビ朝日系列『ポツンと一軒家』は、毎週日曜ごご7時58分から放送中。TVerでも無料見逃し配信。

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