A.B.C-Z・河合郁人&古川昌希アナが京都で発見。時が止まった謎の六連トンネルなんでやねん!?
A.B.C-Zの河合郁人とABCテレビアナウンサー・古川昌希が、『news おかえり』内コーナー「なんでやねん!?」で京都府長岡京市にある謎の六連トンネルを調査した。
時が止まった六連トンネルは、長岡京駅から京都方面に500mほど行ったJRの線路沿いにある。住宅街を抜けた先に突如姿を現す時が止まった六連トンネル。電車がひんぱんに行き交うJR京都線の下にレンガ造りのトンネルが6個も、整然と並んでいる。
いったい何のためにこれほど多くのトンネルが並んでいるのか? しかも、そのうち3つは現在使われていなさそう。路面電車でも走っていたのか。古川アナは「電車が通りそうな道は、えてして川も流れてそう」と推理。トンネルを見ると、いちばん端のトンネルは水路になっていた。もしかして他のトンネルも全て、以前は水が流れていたのか? 二人はトンネルの中を詳しく調べてみることに。ここで河合の観察眼が冴え渡り、橋脚の形状が水を流れやすくしていることに気づく。やはりこの六連トンネルにはかつて水が流れていたのか? そう思いながら周辺を調査すると、ついに近くに川(小畑川)を発見。
古川は「この六連トンネルにはそれぞれに水路が通っていて、その使いみちと行き先によって分岐していたのでは?」と推理を進める。さらにJRの線路沿いを調査したところ、この予想を裏付ける新たな証拠が。なんと、今度は三連トンネルがあり、よく見るとそれぞれのトンネルの出口はコンクリートで仕切られ、別々の方向に水を流すように造られているようなのだ。
古川アナは、答え合わせをしたい気持ちを押さえて推理の方向性が間違っていないか、念のため確認。今回の謎は線路の下のトンネルということで、鉄道ライターの伊原薫さんに電話する。伊原さんによると、その六連トンネルはここへ東海道線が開通した明治9(1876)年にできたものらしく約150年の歴史がある貴重なトンネルとのこと。では、なぜ150年前にこのようなトンネルが必要だったのか? 「単純に川のように水を通す」という答えではない、という伊原さん。「川ではないけど水が関係している」「車道こそが重要」というヒントを得て二人は更に調査を進める。
再び六連トンネルへ戻り車道を調査すると、トンネルのすぐ東側には、三菱電機の大きな工場が広がっていた。そしてトンネルをくぐる車道の名前は三菱通り。いかにも意味ありげだ。二人が出した最終予想は「長岡京はかつて一大工場地帯で、あの六連トンネルは、それぞれの工場に配水する水路の分岐の跡」というもの。連続0点を脱出するべく伊原さんへ電話して答え合わせすると…。結果は「0点」。どうやら、恒例の見落としがあったようだ。
伊原さんと一緒に現地へ向かい三たび調査。道沿いに見つけたのは「増水注意」の看板。実は川からトンネルへの道はずっと下り坂。一方、JRの線路は盛り土をして周囲より高くなっている。つまり、小畑川がもし氾濫し、そこに水が流れ込んだ場合、線路の盛り土によって水の逃げ場がなく大水害を引き起こしてしまうのだ。故にそれを避けるため、たくさんトンネルをつくり水が逃げるようにされていた、というのが今回の答え。
長岡京市の六連トンネルは水の逃げ道をつくる“避溢(ヒイツ)橋”と呼ばれており、今でこそ治水技術が発達し浸水の危険性は低くなったものの、昔は辺りに同様の橋がいくつかあったのだ。しかし、150年前の姿がそのまま残っているのは非常に珍しい。あなたも近くを訪れた際はぜひ確認してみては。
六連トンネル……「七反田(ななたんだ)橋梁」
三連トンネル……「老ヶ辻(おいがつじ)橋梁」
どちらも同じ1876(明治9)年完成
東海道線は機関車の時代に開通したので起伏をなるべく避けるため、低地には盛り土して一段高くしている。桂川以西には同様の避溢橋が当初もっと多かった。
謎の「六連トンネル」をA.B.C-Z・河合郁人&古川昌希アナが調査した「なんでやねん!?」は(月)~(金)午後3時45分「news おかえり」で毎週火曜日に放送中。(TVer見逃し配信あり)