「本当に生きていることが辛かった」阪神淡路大震災に見舞われた双子の母が30年を経て壮絶告白
1995年1月17日に、6434名もの尊い命を奪った阪神淡路大震災。兵庫県西宮市生まれの女性は当時32歳で、我が子である双子の1人を亡くした。30年の時を経て彼女は、「息子を失った悲しみが大きすぎて、娘への愛情まで気持ちがいかなかった時期があった」と、悲痛な思いを語り始めた……。
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朝5時46分に地震が発生したとき、双子の息子と娘を持つ32歳の母親は、家族で西宮の実家にいた。築70年の家は全壊し、1歳半の息子はタンスの下敷きになり、その上に天井が落ちてきたという。当時は、タンスを踏まないと外に出られない状況で、彼女は周囲の人々に説得されて、泣く泣く外へ脱出することに。息子もそのあと救出されたが、その小さな心臓が再び動くことはなかった。
「私の心臓マッサージの仕方が悪かったのかなとか、自分が生き残ったこととかにすごく罪悪感があって。本当に生きていることが辛かった」と語る母親。何をするにも息子の遺影が手放せなかった。心の傷が癒えることはなく、「双子だったので、生きてれば一緒に育つはずだったのが、息子は時間が止まってしまって」「娘だけが成長していくってことが辛くて。娘に成長してほしくないなとかずっと思っていて、息子を失った悲しみが大きすぎて、娘への愛情まで気持ちがいかなかった時期があった」そうだ。
母親にとって、復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』は受け入れがたかった。その理由は、亡くなった人々のぶんも生きていくといった意味の歌詞があるから。とある取材で母親は、「息子のぶんも生きるということが受け入れられない」と語ったそうだ。
しかし、阪神淡路大震災から9年後の2004年に、母親へある変化が。彼女は、『しあわせ運べるように』を歌う、生きていれば息子と同い年くらいの小学生たちを見て、「なんか私、そうやって(=亡くなった方々のぶんも毎日を大切に)生きているような気がする」と思ったのだ。母親いわく、「歌を聴いて気持ちが変わったのではなく、聴くことで変わっている自分に気づいた」そうだ。この変化を、同楽曲の作詞と作曲を手掛けた元小学校教師・臼井真さんに、彼女は伝えた。
それから月日が経ち、2024年12月に母親は娘を連れて、臼井さんの音楽ゼミのコンサートへ。大学生たちが歌う『しあわせ運べるように』に、親子はいろいろな感情を抱えながら、じっと耳を澄ました。そんな親子を取材した、男性アイドルグループ・Aぇ! groupの佐野晶哉の瞳は濡れていた。現在22歳の彼は、親子と同じ西宮出身だが、阪神淡路大震災を経験していない。この取材を通して、悲惨さや、今も傷が癒えない人々の想いを、佐野は初めて知ったのだ。
「震災を知らない僕たちも絶対に忘れちゃだめだし、本当に今日のことを、この歌のことを忘れずに、未来に向けて繋いでいきたい」と語る佐野に、親子も臼井さんも目を細めた。そんな方々の今の姿を、佐野はカメラに収めた。こうした取材記録や、彼が想って流した涙が、未来に繋がっていくのだろう。なお、佐野が取材したこの様子は、1月19日に放送された『阪神淡路大震災30年特別番組 あの時から今へ~私が撮った1.17~』(ABCテレビ)で紹介された。