体調を崩して亡くなる人も…阪神・淡路大震災、被災者が撮り続けた30年前の映像が伝える避難所の厳しい現実
阪神・淡路大震災から30年。神戸市長田区で被災した男性が震災直後の過酷な避難所の生活などをビデオカメラで撮影していました。災害時の教訓が刻まれたその実際の映像から、私たちの“今の備え”について考えます。
中村専一さん(85)は震災当時、妻・美恵子さん(84)、長男の義孝さん(60)と長田区に暮らしていました。1995年1月17日午前5時46分、巨大地震が発生。ビデオカメラが趣味だった中村さんは、記録しなければならないと8ミリビデオを持ち出し、震災直後の近所の様子を撮影しました。
震災発生からおよそ11時間後、午後4時半すぎの映像が残っています。瓦礫の山と化したJR新長田駅付近に佇む人。背後には火の手が上がっています。場面は変わって、両側の建物が崩れ落ちた商店街を歩く被災者たち。カメラを回す中村さんに「怖いね」と不安げに話しかける女性もいます。
阪神・淡路大震災で亡くなったのは6434人。およそ52万8000棟の建物が損壊・延焼しました。地震で消火栓は壊れ、防火水槽の水も尽きました。「火を消せない」と為す術もない人々は、ただ立ちつくすしかありませんでした。
中村さんには忘れられない光景があります。押しつぶされた家に残された子ども。父親が救いだそうとしますがどうにもなりません。火災はそこまで迫り、燃えさかる炎が家を飲み込もうとしています。「それだけは親に見せないでおこうと、嫌がる父親を大人5人くらいで抱きかかえて逃げた」と中村さん。子どもは助かりませんでした。
中村さんの自宅も全焼。近くで営んでいた食堂も全壊しました。たった1日で自宅も店も仕事も財産も失ってしまったのです。映像には「もう何もなくなったなぁ。命があっただけでもよかったと思わな、しゃーない」と自分に言い聞かせるように話す中村さんの姿が。
【動画】中村さんは30年前の自分の姿を見ながら「悲しいのも通り越したら、もう涙も出ないですよ」と当時の心境を。
住まいを失った中村さんが家族と避難したのは、自宅の近くにあった真陽小学校。プレハブの住まいができるまでの4か月間をここで過ごしました。当時の面影が残る校舎を、中村さん一家が30年ぶりに訪ねました。
阪神・淡路大震災ではおよそ32万人が避難。真陽小学校には約3000人が身を寄せました。校内は、大勢の被災者が廊下や階段まであふれんばかり。地震直後は1人あたりのスペースが1畳に満たないことも。避難所は常にほこりっぽく、映像の中の中村さんは、カメラを回しながらしきりに咳をしています。
食料は主に企業からの差し入れや自治体からの配給。ボランティアの炊き出しもありましたが、大半は冷たい食べ物でした。断水で水は使えず、配給のわずかな水で歯を磨きました。
そして、特にひどかったのはトイレ。震災直後は校庭に穴を掘って簡易トイレに。仮設トイレが届いても、その数は圧倒的に足りません。加えて、ストレスから眠れない夜が続くなど心身への負担が大きい避難所生活で、体調を崩して亡くなる人もいました。
近い将来、発生が予想されている「南海トラフ巨大地震」。神戸市では地震や津波で最大2万8000棟を超える建物が被害に遭い、4万人以上が避難すると想定されています。
そこで神戸市は、避難所でのプライバシー保護のため、折りたたみ式のテントを整備。20万人が1人あたり3日生活できる食料などを準備しています。さらに、地震で地盤がずれても破損しない構造の「大容量送水管」や、高さ4メートルの津波の浸水を防ぐ「防潮堤」を設置するなどの対策を行ってきました。
震災直後の様子を撮影し続けた中村さんは、震災から30年が経った今、さまざまな教訓が詰まった当時の映像から「事実だけを見て、みんなはどう考えるのか?」と問いかけます。
被災者が撮り続けた震災の記録は、1月15日(水)放送の『newsおかえり』(ABCテレビ 毎週月曜〜金曜午後3:40〜)の特集コーナーで紹介しました。