スパルタ式指導の“鬼コーチ”を変えた 日本水泳トップコーチの言葉
高さ10メートルからアクロバティックな技を披露する「飛込」。男子は6本、女子は5本の異なる技を飛び、合計得点で順位を競う。
水泳・飛込競技のコーチ馬淵崇英(61)は中国・上海がふるさと。飛込の英才教育を受け、オリンピック出場を目指していた。しかし、世界トップレベルの水準の中国代表は、雲の上の存在。儚い夢となり、19歳で選手を引退、25歳で日本へ渡った。
来日後、兵庫県宝塚市でオリンピック3大会に飛込競技で出場した実績を持ち、当時トップ選手を育てる指導者を探していた馬淵かの子と出会う。かの子は世界トップレベルの中国で指導を受けた崇英なら強化方法をそのまま導入できるはずと考え崇英と共に子どもたちの指導を始めた。
しかし、崇英のトレーニングは中国式のスパルタ指導。その厳しさに子どもたちは元のコーチのところへ戻ってしまう。気持ちが揺れていたとき出会ったのが、小学5年生の寺内健だった。崇英が「金の卵」と見初めた寺内は、1996年15歳でアトランタ五輪に出場するほどに成長を遂げた。
指導者として生きていくことを決めた崇英は1998年日本国籍を取得。身元保証人だった馬淵かの子の苗字を名乗り日本人「馬淵崇英」になった。寺内は2000年のシドニー五輪にも出場し5位の成績を収める。自らの指導に自信を深めていった崇英はますます“鬼コーチ”に…。「飛込という競技は根性が非常に求められる。コーチも根性で勝負する」という信念に基づき、いまなら「パワハラ」といわれる可能性もある指導を続けた。
2014年、中学3年生の板橋美波が飛込の新星として現れた。女子で世界初、4回転半の大技を成功させリオ五輪のメダル候補と注目される。しかし板橋は優勝候補として臨んだ日本選手権でミス、涙にくれる板橋に崇英が厳しい言葉を浴びせる。この時板橋に寄り添ったのが馬淵かの子だった。崇英が気を遣いながら厳しく指導していることをそっと板橋に告げ、精神面で支えたのだ。実はかの子には60年前に人生を左右する“事件”があった。1964年の東京五輪で日本の“メダル第1号”を期待されていたかの子だったが、日本のメダルを見ようと普段観客がいない飛込会場が超満員になり、歓声で審判長の笛が聞こえない状態になってしまったのだ。応援されすぎ極度の緊張感も伴い、かの子は一番簡単な技をまさかの失敗で終えてしまう。それ以来東京五輪はかの子にとって思い出したくない大会となった。「選手として費やした何十年という年月をどうしてくれるのか、メダルを狙わないことには人生の幕が引けない」そう思うようになった。崇英を支え続ける理由には自身の過去も関係していたのだ。
かの子の指導から“選手と心を通わせること”の大切さに気付いた崇英。2016年リオ五輪、板橋の結果は8位だったが、崇英は板橋の涙に寄り添った。
かの子が才能を見出した玉井陸斗は12歳7か月で日本室内選手権へ出場し史上最年少優勝。14歳で東京五輪への切符を掴んだ。その後、2024年パリ五輪への出場も決める。
そして“鬼コーチ”崇英の心境にも変化が。「厳しくすればレベルアップするというのは、前の時代のもの」。北島康介などトップ選手を育てた平井伯昌コーチの思想に感銘を受けたのだ。「選手の心理的特性を見抜かないと力は引き出せない」平井コーチの悩みに共感した崇英の心に響く言葉だった。
馬淵かの子とともに玉井を指導してきた崇英。「崇英コーチにはまだメダルをかけてあげられていない。みんなの夢を自分が叶えたい」と玉井は日本飛込界初のメダル獲得をすべく、パリオリンピックへ向かったのだった。
数々のオリンピック選手を育てた水泳・飛込競技の馬淵崇英コーチを追う「ABCドキュメンタリースペシャル 夢のメダルへ! “鬼コーチ” 35年の闘い」は12月1日(日) 夕方4時25分から放送。