焼夷弾を受けて燃えながら歩く少女――大阪「堺大空襲」の記憶を未来に語り継ぐ次世代の“語り部”たち

80年前、大阪・堺市で大きな空襲がありました。1万9000戸もの建物が全焼・半焼し、罹災者は7万人超、死者は1860人。当時の体験を聞く機会が減りつつある今、次世代に記憶を受け継ぐ取り組みが始まっています。

1941年に勃発した太平洋戦争。戦線が激化する1945年、3月から8月の終戦にいたるまで、大阪は8度にわたる大規模な空襲に見舞われました。そのうちのひとつが「堺大空襲」。7月10日未明、100機を超えるB29が堺を襲いました。

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当時19歳だった柴辻英一さん(99)は堺市内にあった自宅にいました。空から「雨あられのごとく」降り注ぐ焼夷弾。燃えさかる戦火の中、柴辻さんは家のすぐそばにあった池のように大きな防火用水に飛び込み、長時間身を潜めることで命を救われました。

柴辻さんが「運命の池」と呼ぶ、生死を分けた防火用水。その場所は、現在では飲食店の駐車場となり、当時の面影はありません。

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【動画】当時、軍需産業が盛んだった堺の街。アメリカ軍が投下した大量の焼夷弾は堺市域のおよそ6割を焼き払いました。

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そのころ、すでに召集令状を受け取っていた柴辻さんは、戦地に赴く直前でした。あの日、家が燃え落ちる前に持ち出した「千人針」は、弾よけのお守りにと妹さんが用意していたもの。未完成のまま縫い針が刺さった状態で残っているのは「ここまでやったときにちょうど終戦になったからだと柴辻さんは話します。

終戦から80年、当時を知る人たちが高齢化し、こうした戦争の体験を聞く機会は年々貴重に。そんななか堺市では、戦争を知らない世代を「語り部」として育成する事業を去年から始めています。今年は大学生など市民ら38人が参加。空襲を体験した方から直接聞いた話を資料にまとめ、小中学校などに出向いて語り継ぎます。

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中谷孝子さん(86)は当時6歳。空襲の体験を人に話すことはこれまでありませんでしたが、この取り組みを知り、自らも口を開く決意をしました。堺市内で工場を営んでいた中谷さんの実家。空襲を受けて家族と防空壕に逃げるとき、中谷さんは衝撃の光景を目にします。

ひとりの少女の頭に焼夷弾が当たり、防空頭巾を焼いた炎は体も包むまでに。それでも少女はそのまま歩いて行き、燃え上がりながら近くの土居川に飛び込んだーーその姿が今も忘れられず、思い出すたびに「涙が出る」と目を潤ませる中谷さん。

そんな戦争体験者の話を丁寧に聞き取り、“語り”にまとめていく参加者たち。語られる情景や思いが小学生などの子どもにもイメージできるか?などを考慮しながら言葉や伝え方に工夫を重ねます。

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後日、語りの内容を確認するため、中谷さんが堺市内にある大学を訪れました。語り部を務めるのは、大学生の貝岐好香さん(21)。中谷さんの体験を本人の前で披露します。

「父のマントにくるまれて、私はじっとしていました」「外がどうなってるのか気になって、見なくてもいいのにマントの隙間をのぞいてしまったんです」。そして、80年消えることがなかったあの少女の記憶が語られると、中谷さんの目から涙があふれ出します。

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「胸がいっぱいで感謝しかない」「ありがとうね」と深く頭を下げる中谷さん。自分の体験を伝えてもらえることが「何よりもうれしい」「私の生きがいにもなる」と感無量の表情です。

中谷さんの思いを受け取った語り部たちは、この夏、堺市内の学校をまわって体験を伝えています。80年前の壮絶な体験に熱心に耳を傾ける子どもたち。ある中学生は「戦争ってこんなに悲惨で、負けても勝ってもみんな不幸だということがわかりました」と感想を話します。

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80年前、堺で起きた悲劇を繰り返さないため、未来へと思いをつなぐ「語り部」活動。忘れてはならない記憶を受け継いでいくことで「亡くなったお方も浮かばれる」と中谷さんはその意義を語ってくれました。

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堺大空襲の「語り部」活動は、8月14日(木)放送の『newsおかえり』(ABCテレビ 毎週月曜〜金曜午後3:40〜)で紹介しました。

『newsおかえり』YouTubeチャンネルで配信中

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