爆心からおよそ3kmの家で燃えずに残った“奇跡のピアノ”――原爆投下から80年 広島で“被爆ピアノ”に息を吹き込む調律師の願い
1945年8日6日に人類史上初の原爆が広島に投下されてから80年。爆風によって傷ついたピアノの音色を今に残し、音で平和の尊さを伝える調律師の活動を追いました。
広島市内の緑豊かな山間の町にピアノ工房を構える矢川光則さん(73)は、50年以上のキャリアを持つピアノ調律師。終戦から7年後に被爆2世として生まれ、調律や修理の仕事をする中で“奇跡のピアノ”と出会いました。
それはあの日、原爆の被害を受けた「被爆ピアノ」。矢川さんの工房の敷地内にある「被爆ピアノ資料館」には、県内から持ち込まれた7台の被爆ピアノが保存・管理されています。
爆心地からおよそ1.5kmで被爆したピアノは今から100年以上前の1920年に製造されたもの。持ち込まれたときには中にガラス片が詰まり、ピアノ線も切れて鍵盤も破損していました。側面に今も残るのは、爆風の衝撃のよる痛々しい傷跡です。
そして30年前、矢川さんのもとにやって来た最初の被爆ピアノは、爆心からおよそ3kmの家で奇跡的に燃えずに残っていたもの。原爆によって傷つき、美しい音色を失っていたピアノに、調律師である矢川さんが息を吹き込みました。
音で伝える「生き証人」であるピアノを当時のままに、部品をできるだけ変えずに音色を取り戻すのが矢川さんのこだわり。両親も祖父母も被爆者ながら、原爆や平和については「人ごとみたいに考えていた」と矢川さん。それが被爆ピアノとの出会いを機に「いつの間にか“自分ごと”になっていた」といいます。
そんな矢川さんが20年前から取り組んでいるのが、被爆ピアノによるコンサートや講演会などの活動。戦争の悲惨さや平和の尊さについて考えるきっかけになればとこれまで開催されたコンサートは、およそ3500回にものぼります。
【動画】2010年にはアメリカへも。同時多発テロの犠牲になったNYの消防署員への鎮魂コンサートのため、海を渡りました。同じ消防署員で原爆の中を生き残った父・正行さんへの思いが矢川さんの背中を押したといいます。
7月末、兵庫・芦屋市で行われる平和コンサートに参加するため、自ら4tトラックを運転し、工房を出発する矢川さん。荷台には、最初に命を吹き込んだあの被爆ピアノが。目的地までおよそ300km、5時間の長い道のりを「みなさんが“平和”に思いを馳せていただければ」との願いとともに走ります。
会場に到着すると、まずは調律作業。このピアノには、もともとの弦と、爆風で切れて新しく張り替えられた弦の新旧の弦が混在しています。それだけに調律は難しいのですが、矢川さんは「いつも通り、いい状態で響くと思いますよ」と慈しむように作業を進めます。
そしていよいよ、コンサートの幕が上がりました。第1幕は「沖縄戦」、第2幕は「ヒロシマ・被爆ピアノ」の物語。戦時下の人々の悲痛な声と心情が、歌や朗読、そしてピアノの演奏で綴られます。どこか悲しげで切なく、ときに力強さを感じさせる被爆ピアノの音色に観客は引き込まれていきました。
終演後、感想を聞いてみると「傷がいったりしているけど、まだ弾けるのがすごい」と驚く女の子や、「昔の体験がそのままピアノに移ったというか、苦しみとかそういうものを感じた」とピアノがたどった運命に思いを馳せる女性も。
原爆投下から80年、これからも被爆ピアノで“平和の種”をまき続けるという矢川さん。「平和が当たり前」になったからこそ忘れがちな、平和の尊さを意識し、考えるきっかけに「被爆ピアノがなってくれれば」と願っているといいます。
被爆ピアノで平和を訴えるピアノ調律師の活動は、8月6日(水)放送の『newsおかえり』(ABCテレビ 毎週月曜〜金曜午後3:40〜)で紹介しました。
