「亡くなられた人が池に浮いていた」6回の空襲で1469人の命が奪われた「明石空襲」の記憶を語り継ぐ

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太平洋戦争末期、東京や大阪など都市部への空襲が盛んに行われましたが、兵庫県明石市でも6回にわたる大規模空襲があったことは、あまり知られていません。「明石空襲」の事実を語り継ぐ体験者たちの取り組みを取材しました。

終戦の年にあたる1945年(昭和20年)1月19日、兵庫県下で初めてとなる本格的な空襲が明石を襲いました。当時の明石には戦闘機をはじめ鉄鋼や防毒機器などを製造する軍需工場が数多くあり、これが標的になったのです。

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この体験を語る矢野蓉子さん(84)は、当時4歳。爆弾が落ちたときの「ドーン」という轟音や、逃げ込んだ防空壕の壁が爆撃の振動で激しく揺れるさま、戸板の上に横たわる負傷者の姿を今も覚えているといいます。

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このとき投下された爆弾は610発。亡くなった322人の中には、学徒動員として工場で働いていた10代半ばの若者たちも大勢いました。この最初の空襲も含め、終戦を迎えるまでの半年ほどの間に、明石は6回も空襲を受けることになるのです。

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牧野満徳さん(84)は5歳のとき、アメリカ軍の戦闘機から激しい攻撃を受けました。機銃掃射の弾丸が降り注ぐなか、牧野さんは一緒にいた姉と側溝に身を潜め、命拾いをしたといいます。

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牧野さんは現在、ボランティアで明石の観光ガイドをしながら、明石空襲や戦争の跡=戦跡について案内する“戦跡ガイド”をしています。ガイド中によく立ち寄る場所が兵庫県立明石公園。1945年6月9日の2回目の空襲時、2トン爆弾が落ちて269人が亡くなった場所です。

戦時中には食糧難を解消するための芋畑や田んぼが広がっていた明石公園。空襲警報が発令された際の広域避難場所にも指定されていたため、およそ30もの防空壕が掘られていました。

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そして6月9日、多くの人が避難していた公園を爆弾が直撃。たくさんの一般市民が犠牲になりました。桜の名所として知られる剛ノ池には「亡くなられた方がぷかぷか浮いていたと」「樹木に来ていた服や片腕、片足など肉片が引っかかっていたそう」。牧野さんが語る当時の光景は想像を絶するものです。

【動画】明石市への6回の空襲で1496人が死亡。市内の61%が壊滅しました。

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アメリカ軍の攻撃は軍需工場を狙ったものから市街地への無差別攻撃へ。7月7日、5回目の空襲では4875発もの焼夷弾が街に投下され、明石の中心部は火の海となりました。このとき、現在の神戸市西区に疎開していた矢野さんは、赤く染まった明石の空を屋根に上ってじっと見ていたといいます。

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空襲体験を人前で語ることはこれまでなかった矢野さん。しかし、今年初めて参加した戦跡ガイドをきっかけに、積極的に話していこうと決意しました。「そういう話ができるのは私の年代まで」「だから余計に今“明石ってこんなに怖かったんやで”ということを話したい」。

創立150年を迎える明石市立林小学校では、明石空襲について授業で学ぶ取り組みが、今年初めて行われました。6年生が体験者に話を聞き、戦跡に足を運んで街の歴史を調べ、発表会を開いたのです。会場には、児童の発表に真剣な表情で聞き入る牧野さんの姿も。

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明石の街が壊滅したあの夏から79年。今も世界では戦争が絶えません。「今からの時代を支える若い人たちに80年の遠い昔の話ではなく、ぜひ戦争の悲惨さを語り継いでいってほしい」。牧野さんはそう願っています。

明石空襲を語り継ぐ体験者たちは8月15日(木)放送の『newsおかえり』(毎週月曜〜金曜午後3:40〜)の特集コーナーで紹介しました。

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